ワインの質・優劣って「客観的に」判断できるもの?

Can one wine ever be objectively better than another? <-これが本当のMW試験の質問でした

ワインの優劣などというものを、客観的に評価することはできるのですか?

中世の時代では、ワインは日常的に不足する栄養やカロリーの補給として、飲まれていたという。が、今日では、ワインは好きな時に、好きなスタイルのワインを、好きな状況下で楽しむ嗜好品であり、また、心地よい酔いを誘う「アルコール飲料」でもある。このような主観的な飲み物であるワインを、「客観的」に判断し、優劣を下すというのは、非常に難しいと思われる。唯一の例外は、ワインの品評会であろう。

 

正式な品評会でワインの審査に関わる人は、客観的にワインの質を判断できる教育を受けて、それを生業にしている人種である。例えば、Masters of wine, Master sommeliersといった、同じカリキュラムを経て、同じ判断基準を受け入れ、身に着けてきた人種である。審査員の偏見や主観を排するために、ワインは完全な目隠しの状態で提供される。逆に言えば、どんなに訓練されたワインのテイスターであっても、自分の嗜好、偏見、好感度は押し殺す必要があるということだ。この一点をとってもいかに人間が嗜好品を客観的に判断するのが難しいかが分かる。また、判断基準の一つに、「欠陥のあるワイン」は「悪いワイン」として、評価を下げるという鉄則がある。この点について考えてみよう。審査員としてはBrettanomycesやVAが顕著であれば、「欠陥ワイン」として客観的に評価を落とすであろう。また、そのように教育されているはずだ。しかしながら、審査員の中にはこのブレッティな「臭い」ワインや、黒酢のような香りのするVAを好む人もいる。ましてや、ナチュラルワインの愛好者は、どう考えてもこういうイーストやバクテリアに汚染されたワインを「テロワール」として、或いは「不介入ワイン」として受け入れ、愛好している。

 

ナチュラルワインの愛好者が多い日本で、専門にヨーロッパから長年輸入をしている業者によると、「豆っぽさ」(mousy=Brett, LAC 汚染)はナチュラルワインには必ずついて回るものであって、欠陥ではないと判断し、売買しているという。また、愛好者の間でもこの「欠陥」を嗜好している風がある。彼らに「客観性が欠けている?」というのは一つの判断であり、また正式なワインの知識があれば、健全なワインの方が優れたワインだと理解するはずだとも考えられるが、ワインが嗜好品である以上、難しいかもしれない。

 

また、同じ審査員の中でも、出身地、カルチャー、育ったワインの違いによって、客観的な判断にも誤差がでる。例えばWSET Diploma, Master of Wineという同じ流れの教育と資格を持った審査員が主流のJapan Wine Challengeというワイン品評会がある。興味深いのは、海外であまり出回っておらず、日本人以外の審査員には不慣れの日本ワインの評価では、日本人審査員とその他の(特に日本ワインになじみの薄い)審査員と評価が分かれることが多々ある)これは日本ワインに限ったことではない。International Wine and Spirits Challenge においても、新世界(USA, Australia)の審査員とヨーロッパ出身の審査員の間では果実の熟成及びアルコール度に対する評価が微妙に分かれることがあったが、これは飲みなれたワインを良しとする人間本来のオリエンテーションであり、これをどちらがBetterであると判断するのは、価値の押し付けとなりかねない。

 

更に考察すると、「客観的に良しとする」という判断基準は、イギリスを中心とするワインの教育機関が長年に渡り、打ち立ててきた価値観であり、その後からワインづくりを始めて、ダイナミックに世界市場を席捲しつつあるNew Worldの価値観や嗜好とは一線を画する。ましてや、今世紀に入ってワインになじみ始めたアジア・アフリカなどの消費者は、食生活もお酒の飲み方(ワインは酒である)も、文化・社会的な価値観も異なる。要は、西洋でワインの審査員をするような教育を受けてきた人の好みや価値観と必ずしも一致しないということだ。

 

そういう地域では、「高級なワイン」「世界的に有名なワイン」は、客観的に素晴らしいObjectively betterワインと受け入れられることが多い。しかしながら、ワインの価格と品質が必ずしも比例しないのは、ワインの業界人なら知っているであろう。嗜好品のワインは、宝石やブランドファッションと同じく、値段があってないようなものだ。ましてや、少数生産の、例えばロマネコンティやペトリュスのように、もともと入手困難なワインをコレクターや一部の金持ちが買い漁れば、オークション効果で値段ばかりが吊り上げられていく。ある時、カリフォルニア在住のマスターソムリエが集まって、ペトリュスやScreaming Eagleを飲み比べた会があり、そこに参加していたマスターソムリエのジェフ クルーズが「カリフォルニアよりどっしりとしてバランスの悪いペトリュスになんでこんな値段が付いたのか」という感想をソムリエギルドのポッドキャストでつぶやいていたが、こういう感想を公式に言えるだけのパレットと自信を持っている人は少数だ。

 

ワインは生き物であり、飲み方により味が変わる。長年樽熟成したボルドーをデキャンタせずに、或いはデキャンタ後1時間以内で飲んだ場合と、数時間かけてその変化を味わう人とでは、質の評価が違う。また、人によっては若々しいワインを好み、同じワイン(たとえはブルネロや、バロロ、ナパ)でも10年以上寝かさずに、果実味をより味わうために比較的若いうちに飲む消費者も多い。この場合、同じワインでも、飲む時期、飲む手法、また誰と飲むかなどで評価が異なってくるはずだ。

 

このように、ワインの味わいというのは、飲む人のバックグラウンドや、飲むセッティング(好きな、親しい人とシェアーするのか、一人でじっくり飲むのか、やけ酒するのか)そして飲むタイミングで大きく変わる。そしてそれを選ぶことができるのがワインの面白さであり、まさに嗜好品として優れた部分でもある。

 

「ワインは客観的に、どちらが優れているのか判断できるのか?」という問いには「否 !」と答えよう。その問い自体が、ワインの民主化を妨げる「選民意識(Wine Elitism)」の表れであり、ワインの判断基準をある国が打ち立てた「国際基準」に一致させようという意図すら感じさせる。ワインは嗜好品。普段、消費者が飲むワインの価値基準は、単純に「好き」か「嫌いか」で十分であろう。

アメリカにて、日本ワインを思う

レポートした通り、日本にはワイン法が存在しない。日本酒という古来の文化があっても、ワインという新しい飲み物は、まだ日本文化に根を下ろしているとは言い難い。日本でワインを醸造する場合、ワインメーキングは日本酒の酒造法に基づいて管理される。その結果、欧米で当たり前の材料やテクノロジーも、酒の現場で使われていなければ、適用できない。

さらに問題なのが、「日本ワイン」の法的規定の欠如だ。市場に出回っている8割以上の「日本製」ワインは、大手酒造会社(サントリーやキリンなど)が、チリやオーストラリアなどから格安で輸入した濃縮ブドウジュースをワインに加工して、千円以内で売っているものがほとんど。

「これではいけない」と気がついたのか、或いは、オリンピック景気に備えた外国人目当ての商戦なのか、政府がやっと重い腰を上げた。日本ワイン を、「国産ぶどうのみを原料とし、日本国内で製造された果実酒」と定義し、2018年10月30日から法的に適用する。やっと日本も、ワインという 西洋で確立された歴史的飲み物を、我が国の一部として認知したということなのだろうか。

 

とはいえ、現場でぶどう栽培やワイン造りに関わっている方々の苦労は、続いている。まず、ワイン用ぶどうの栽培者が育っていない。 皮が薄く、タネなしで、実が大きいアメリカ出身の生食用ぶどうなどでは、決して良いワインは作れない。それは、植民地時代から、ヨーロッパの移民が、アメリカの地場ぶどうでワインを作ろうとしては、諦めてきた歴史が証明している。しかし日本ではこの生食用のぶどうに高値がついてきた。農家としては、得体の知れない「ワイン用のヨーロッパぶどう」など、 作りたくないというのが本音だ。結果、売れ残った生食用ぶどうを潰して、とりあえず「飲める」ワインを作ってきた悪しき伝統が続いている。

 

今回の取材で出会ったのは、本格的にワイングレープの栽培に取り組む人たちだ。それはフランスやアメリカでワイン造りを学んだ帰国組や、代々のぶどう農家の後継者がワイン造りに目覚めてしまったケース。大企業も広大な自社畑を使って、いろいろなトライアルを行なっている。とはいえ、老齢化が進むぶどう農家は離農を考え始め、逆に簡単にワイン造りをしたいと夢見る若者が、ワインメーカーを目指し始める。こうして、ぶどう不足はますます深刻になる。そして、優良なぶどうからでしか、美しいワインは作れないという当たり前の事実。

 

前号では、日本のナチュラルワイン人気を特集したが、今の日本は「日本ワインブーム」だ。3千5百円も出せば、海外の高品質のワインを購入できるとわかっていても、応援する心情で、日本のワイン(甲州・マスカットベーリーAや、生食用アメリカぶどう=デラウェア、コンコルドで作るワインなど)を買っ

てあげる。実際、膨大なインタビューを通して確信したことは、誰も日本のワインがとても美味しいとは思っていない事実だ。でも「あんなに頑張っているから、応援したい」という。

 

今では筆者も、日本人が日本のワインを応援したいという心情は理解

できる。なぜなら、ワイン造りに全く向かない高温多湿、大雨の風土にもかかわらず、本当に熱心にぶどうやワイン作りを研究し、励む姿を見てきたからだ。とはいえ、ビジネスの視点で見た場合、日本だけで通じる「甘え」が、生産者にも消費者にもある。要は「身内びいき」ということで、国内だけで通じても、海外の厳しい「自由競争」市場では、生き抜いていけないということ。今の日本ワインの質と値段で

は、まだまだ海外では通用しない。そういうアドヴァイスを会う人ごとに

してきた。と同時に、日本ワインの質をうんと上げて、来日する外国人に胸を張って振る舞える酒に成長させて欲しい。そして、その中の一部でも、海外進出に値しうるブランドができたら、、、、と願ってやまない。